1980年9月、そろそろ夜の熱気が収まってくる時間だというのに窓際に座ったカップルは席を立つ気配が無い。
彼らは今夜最後のお客だったが、11時過ぎにふらっと入ってきてワイルド・ターキーをボトルで注文すると2人でロックを飲み始めた。
おとなしく飲んでいれば何の問題も無いが、2人の言い合いは耳障りだし、だらだら居座られるのはもっとも好ましくない事態だ。
バー・カウンターの中でひょろっと痩せた若者が困った顔をしてグラスを磨いていた。
これ以上飲ませるともっと厄介な事態を招きそうだし、かと言ってこのままでは朝まで付き合わされてしまうかもしれない。
若者はしばらく考え込んでいたが、意を決して8オンスのタンブラーにボンベイ・サファイアを注ぎ、残りを赤ワインで満たした。
スペシャル・カクテルをトレイに載せてカップルの女性の前にグラスを置いた。
「これは当店自慢のTop & Bottomというカクテルで、私どもからのプレゼントです」
軽いバリトンで挨拶をすると男性は鷹揚にうなずいた。
「いつもありがとう」
男性の応対もなかなかのものだ。いつもってこのお客さんは初めてなんだけれどね(笑)
若者がカウンターに戻ってしばらくすると、カクテルを飲み干した女性はだんだん頭がたれてきた。
少し前までの騒がしい会話が滞りがちになり、やがて男性が片手を上げてチェックのサインを送ってきた。
テーブルでチェックを済ませると男性は若者にウィンクして女性と供に帰っていった。
若者はニッコリ笑ってテーブルの片ずけを済ませてから、バタフライを外し私服に着替えた。
「男同士でお互いの利害が一致したじゃないか(笑)」
計算通りに事が進んだ事実とあのカクテルの効き目に若者は驚くと同時に感謝した。
店を閉めて入り口をロックし、その鍵を看板の裏側の釘にぶらさげると若者のバイトは終了する。
見付のドーナッツショップまでアロハシャツの袖を揺らしながらネオンの中を若者は歩きはじめた。
ドーナッツショップの黄色い光が輝く店内ではレイヤードの髪をかきあげて若い女性が待っていた。
店に入らず表から手を上げると彼女はすばやく立ち上がり若者に駆け寄った。
「おす、ナンパされまくりだった?」
若者は笑いながら彼女に声をかけた。
「バカな事言ってないでえ〜さっさと行きましょ!」
彼女はクールに言い、車のキーを若者に放り投げると腕にしがみついてきた。
「OK!じゃあ出発だ」
外堀通りに路駐してあるゴルフに向かって2人は歩き始めた。
ルーフキャリアにサーフボードを2本積んでいるので、スピードは出せないが、夜の高速はスムーズに流れ、第三京浜〜横浜新道と抜けて腰越に着いたのは5時前だった。
海に着いたら寝ると言っていた彼女は、高速に乗るとすぐに寝息を立て始めた。
まだ薄暗い腰越の住宅街の中に友人宅があり、駐車場に車を停めると若者は静かにドアを開けた。
彼女は助手席でまだ柔らかい寝息を立てている。
若者は音を立てないように腰越漁港に向かって歩き始めた。
途中の自動販売機でコーラを買うと喉を鳴らして半分ほどを一気に飲み干した。
コーラを飲み干して腰越漁港に立つと、ゆっくり朝日が上り始めた。
そして朝もやの中で太陽の光が江ノ島に反射してきらきら輝いている。
車に戻ると彼女はそこにはおらず、リビングの中から笑い声が聞こえていた。
若者はリビングのウッドデッキに上がると友人の母親に向かってペコリと頭をさげた。
彼女はコーヒーをご馳走になっており、リビングの中はコナコーヒーの豊な香りで満ち溢れていた。
「おはようございます。今日からお世話になります」
若者が頭をさげると、彼女もつられて頭をさげた。
「うちのshinも午前中には戻ってくるから先に海に行ってなさいな」
フライパンの中ではベーコンを炒める音がしている。
天気もいいし最高の朝じゃないか・・・そのとき若者は自分が空腹であることに気がついて、なぜか激しく赤面した。
朝食をご馳走になると若者は車から荷物を降ろし、彼女と2人で海に運び始めた。
海の家を取り壊した材木が積み上げられている海岸はまだ充分に夏の光が充満している。
不思議なことに海水浴客が居ないのに、甘いコパトーンの香りが海風に乗って漂ってくる。
若者はサーフボードとアイスボックスを海岸まで運ぶとパイプのサマーベッドに寝そべって空を見上げた。
腰越は初心者用の海岸なのだが、台風も近づいているし今日の波は期待できそうだ。
早朝は波が立たないので、のんびりコーラを飲んだり泳いで時間を潰していたが、昼前になって風が変わると力のある厚い波が立つようになってきた。
海に来る度につくずく思うのだが、サーフィンとは贅沢な遊びである。
波が無ければ出来ないし、その波をチェックするためには最終的には海のそばに住むしかないのだ。
波のためにすべての生活を犠牲にする覚悟が必要とされるのである。
週に1〜2回、わずか数時間のライデイングのために生活のすべてを傾けなければならないのだから本気でやれば大変なコストがかかるだろう。
海を見ると長いセットで波が入り始めている・・・そろそろいくかな。
「ちょっくら乗ってくる、shinが来たらお昼ご飯をご馳走になろう。本格的に乗るのは午後がいいね」
彼女はうなずくと若者の後姿に手を振った。
沖のセットまでパドリングすると、すでに知り合いのローカルが3人波待ちをしていた。
若者は軽く頭をさげると、3人は小さくうなずいた。
「よおikeちゃん久しぶりだね?今日はまだ波が小さいけど、明日はショルダーくらいになるかもよ」
ローカルの中でも年配のサーファーが若者に穏やかな口調で話し掛けた。
「私の腕だとショルダーでも大きいですね。今日くらいの波でちょうど良いかんじですよ」
年配のサーファーはにっこり笑うとあごでセットを示した。若者は沖のセットを振り返りながらパドリングを開始した。
テイクオフのタイミングが少し早かったがエッジをかけてゆっくり波に乗った。
岸では彼女といつのまにか合流したshinが手を振っている。
まだ、波のパワーが上がっていないので派手なカットバックはやめて、ロングライドで岸まで戻った。
「これからshinの家でお昼をご馳走になったら、午後からはゆっくり楽しめそうだな・・・」
若者はボードを抱えると彼女とshinに向かって熱い砂を踏みしめながら歩き始めた。
1980年9月、その日の空はひたすら青く、腰越の海は滑らかにうねっていた。
「これから3日間はたっぷりサーフィンを楽しめるんだ」
若者は飛び上がりたいほどの幸福感に満たされていた。
沖を振り返ると、先ほどのローカルが次々にテイクオフしていく姿が遠くに見えていた。