1985年5月、どこにでもあるような春の朝、私は16号線沿いのカフェで寝覚めのコーヒーを飲みながら彼を待っていた。
徹夜明けの遊び人たちに混じって、まだ夜が明けきっていない朝もやのかかった横浜の静けさを楽しんでいると、喘息のようなエンジン音を立てながら紺メタのシビックカントリーワゴンがこちらに向けて走ってきた。
仲間内では遅いと評判で「アオウミガメ号」と呼ばれているシビックだ。
1500ccのエンジンにホンダマチックという中途半端なATを装備したワゴンにしては荷物が多すぎるようだ。
この排気量の車にウィンドサーフィンのボード2本と機材一式は過積載に近い荷物だと思う。
車内の乗員は1人だが、リアシートを倒して荷台として荷物を満載している。
4m程度の車体と同じような長さのボードが2本キャリアの上に乗っているが、せめて1本にするべきね(笑)
アオウミガメ号はウィンカーを出して私のいるカフェの駐車場に入ってきた。
私の車の横に器用に駐車してエンジンが止まると車が大きなため息をついたように見えた。
車からは若い痩せた男が降りてきた。
彼は店内でコーヒーを飲んでいる私を発見すると、軽く手を上げた。
「お待たせ〜!ここからは2台で走ってもガスの無駄だから、俺の車で行こうぜ」
彼の軽いバリトンが響いた。
ぼさぼさの髪を掻き上げながらリアシートの荷物を片ずけはじめたのだが、その時、カランとビールの空き缶がアスファルトに転げ落ちた。
私はアオウミガメ号に乗りたくない(笑)
私は車のキーをカフェのオーナーに預けて、助手席に乗り込んだが、ドアを閉めるとき、車の下でドサッという音がした・・・何かが地面に落ちた音だ。
車の下回りが錆びていて、腐食した鉄板が地面に落ちる音なのだ。
この車に乗るのは今日で最後にしよう・・・
それでも車はちゃんと動き始め、16号を鎌倉に向けて走り始めた。
手動で窓を開けると排気ガスの混じってない朝の空気が車内に入ってくる。
金沢八景を右折すると朝比奈のつづらをアオウミガメ号はゆっくり上り始めた。
彼はアクセルをベタ踏みしているがスピードは上がらない。
以前、shinの240Zで来た時は太いトルクで楽に上りきったはずだ。
あのZの排気量ならヒルクライムも大楽なんだよね・・・
シビックが急勾配のカーブをクリアする度にリアシートではビールの空き缶がガラガラ音を立てる。
つづらのピークに達するあたりで鎌倉霊園の入り口が見えてきた。
ここからは下りになるが、FF車はアンダーが出るからダウンヒルも大変だ。
もっともこの車ならガードレールに張り付いても大丈夫なくらい傷だらけだよね。
彼は小刻みにステアリングを切って、程よい過重を前輪にかけながらコーナーをクリアしていく。
車は鎌倉方面に進み、八幡宮の参道を海に向けて走った。
最後の鳥居を過ぎると、目の前に鎌倉の海が飛び込んできた。
当時は134号の突き当たりが駐車場で、7時だというのにもう駐車場入り口には車の列が出来ていた。
今日は穏やかな風が吹いている。
由比ヶ浜の駐車場に車を停めると目の前にはキラキラ輝く5月の海が見える。
以前はサーファー艇ばかりだったが、今ではオールラウンドファンボードも増えてきた。
カラフルなセールを見ていると「ガストラ」と「ニール・プライド」が目立ってきたようだ。
彼はビーチでAlphaのボードに6.3?のガストラ・パワーヘッドを張っている。
私の板は兄のお古のサーファー艇なんだ。
2艇のセールを張り終えると彼は振り返ってニッコリ笑った。
そしてクーラーBOXからビールを取り出すと美味しそうに飲み始めた。
さて、今日はいいセーリング日和になりそうね。
私は車の中でシーガルに着替え、自分の板を持って波打ち際まで歩いた。
ショアブレイクの先でセイルをシバーさせながら彼は私を待っている。
私がショアブレイクを越えると、彼はポートタックで逗子に向かって板を走らせはじめた。
私も彼についてサーファー艇を走らせた。沖に出ると少し風が上がり始め海面もうねりが出てきたが、ウィンドの板やディンギーが何艇もセーリングを楽しんでいる。
ふと岸を見ると材木座海岸が遠くに見える。
春ののどかな風景だ。
前を走る彼の航跡に白いスプレーが上がり始めた。
セールを引き込んで板をプレーニングさせ始めたようだ。
みるみるスピードが上がって私は離されていく。
彼はジャイブでターンを決めると私に向かって戻って来たが、思い切りテールをけって板を止めた。
私を待つ間は板の上に座り込んで休憩するつもりみたいだ・・・
結局、今日は昼前に食事で海から上がっただけで、一日中セーリングしていた。
彼と板を交換して乗ってみたり、逗子まで遠出をしてみたり・・・
実は海から上がった時にはヘトヘトに疲れていて、セールを畳むのもしんどかったんだ。
4時を過ぎると、そろそろ太陽が傾き始めてくる。
私たちもボードを車に積んで帰り支度を始めたところだ。
ポリのタンクのぬるくなった水を頭からカブって着替えると、黄昏が迫る時間がやってきた。
そろそろ駐車場の車も少なくなってきた。
横浜で晩御飯を食べることにして私たちも車に乗り込んだ。
今日は年に何回も無いほどのセーリング日和だった。
そして思いっきり笑える話もあった。
彼と私がスタボータックで走っているときに、ポートで突っ込んでくるボードがあった。
私は「スタボー」と叫んだのだが、相手は「ポート」と叫び返してきた。
スタボー優先は海上では初歩的なルールである。それなのに逆にポートって叫び返してくるなんて(笑)
結局は相手が沈して止まったが、その場で彼と私は大爆笑してしまった。
沈した相手に航行ルールを説明してあげると、相手の女の子は大赤面していた。
知らないって怖いことなんだね(笑)
車は渋滞している134号を走り始めた。
突然、彼が運転席で嬉しそうな声でつぶやいた。
「悪いけど車線変えたいから窓開けてスタボーって叫んでくれ」
私が窓から手を出して「スタボー」と叫ぶとアオウミガメ号はウィンカーを出して車線変更をした。
彼と私は大笑いをしながら横浜に向かって走り出した。
今回は多少ですがボード・セーリングの専門用語が出ているので解りずらい部分があると思います。
解らない単語はにてお問い合わせください。
この話を書いていてアオウミガメ号の事を懐かしく思い出してしまいました。