得意先に校正原稿を届けた帰り道、ショーウィンドウに春の陽光がキラキラ反射していた。
そこには大判の茶封筒を抱えた私が写っている。
ウィンドウに写る私は男の子と変わらないいでたちで午後の光を浴びている。
ニコっと笑ってみると、その笑顔で自分がギリギリ女の子に戻ったみたいに感じられた。
ウィンドウの中には春物のパステルカラーのセーターが陳列してあった。
私の顔は春色の洋服をバックにウィンドウの上で微笑んでいる。
今日は金曜日だ、急いで事務所に戻らなくてもよいし、のんびり街を散歩してから帰ろう。
そう思うと急にウィンドウの中が輝き出したような気がしてきた。
さあ!春物の洋服を眺めながら遠回りして事務所に戻ろう。
事務所に戻るとデスクはがらがらで、牛山部長だけがのんびり競馬新聞を読んでいた。
先日、取引先で言われて気になっていた事を、ついでに部長に聞いてみた。
「牛山部長、Smart Beginnerってどういう意味なんですか?」
えっ?という顔をして牛山部長は競馬新聞から顔を上げて私を見上げた。
「誰がそんな事を言ったんだい?」
部長は笑いながら私に聞き返してきた。
「オーシャンクリエイトの鹿沢さんですが、私の事をSmart Beginnerみたいだって・・・」
部長は弾けるように大笑いしながら答えてくれた。
「Smart Beginnerってのは競馬の逃げ馬の事だよ。彼は留学経験があるんでそんな単語が出て来たんだろうな。確かに君のキャッチコピーにはピッタリだね。」
「ええ〜そんな〜」
私は驚いて声を出してしまった。
「君がのびのび仕事をしている姿と緑のターフをのんびり走る競走馬の姿がダブったんだろうね。鹿沢さんらしいコピーだよ」
部長はのんびりと答えると、また競馬新聞に戻っていった。
私はちょっと複雑な気持ちだったが、自分のデスクに戻ってPCの電源を入れた。
窓の外の光がキーボードに当たり、木漏れ日がチラチラ踊っている。
そうなんだ、今日は連休前の金曜日だったんだ。
私はパスワードを入力する手を止めて、ぼんやり窓の外を眺めながら目を細めた。
部長の広い背中と私の華奢な背中に午後の光が当たっている。
こんな暢気な毎日だったら最高なんだけどな(笑)
私は部長と自分のためにコーヒーを入れるために立ち上がった。
やがて、事務所の中に柔らかなコナ・コーヒーの香りが低く漂い始めた。
6時になると事務所は帰り支度する人が多くなってきた。
私も仕事を片付けて牛山部長の顔を見た。
部長はニコっと笑うと目でいつものサインを送ってきた。
246沿いのハンバーガー屋で軽くビールを飲んで帰ろうというサインなのだ。
私が入社したばかりの頃、出張校正から帰って来る途中で偶然にハンバーガーショップでビールを飲んでいる部長を見かけてから二人だけの習慣になった事なのだ。
部長は巨体をデスクから持ち上げて「うす、俺帰るわ!」とつぶやいた。
私は部長が事務所を出てから、きっかり10分後に後を追った。
アメリカンスタイルのハンバーガー屋さんは混みあっていたが、部長は偉そうにカウンターを独占してビールを飲んでいる。
「おぉ、お疲れ!」部長は低い声で言うとジョッキを持ち上げて私と乾杯した。
部長は4月だというのに早くもアロハシャツを着ている。
話によれば、大学の同期生がアロハシャツのECサイトをやっていて、無理やりアロハを買わされているらしい(笑)
部長本人も「バカな奴だけど仲間内のつきあいだからしょうがねぇんだよ」とぼやいている。
でも、部長には似合っていると思うんだ。
私たちの仕事は普通の会社勤めじゃないし、服装は自由なんだからね。
部長がロッカーにスーツを隠しているのは知っているけど、トラブルの時以外じゃ着ないよね。
カウンターでビールを飲む部長のアロハ姿に「オーグレイト!」なんて声をかける外国人も多い。
部長もとぼけて「オウシット!」なんて言っている。
私はビールを噴きそうになって笑いを堪えるので必死だ。
私と部長は世間話をしながらビールを3杯ずつ飲んで金曜の宵を過ごす。
そして「よい週末を!」と言い合って帰宅するのだ。
私が仕事上のトラブルを起こしたのは5月末の木曜日だ。
得意先のキャンペーン用資材を東京の営業所ではなく、名古屋の本社に発送してしまったのだ。
キャンペーンの社内プレゼンテーションは東京の営業所で行われる。
会議は今日の1時からで、今から名古屋に取りに行っても間に合わない。
どんなに頑張っても30分以内に名古屋を出ないと間に合わない時間なのだ。
部長にその件を報告すると、さすがに「ゲッ!」といったまま部長は凍った。
ツンドラみたいな空気の中で、部長は「事情はわかった、得意先の担当には確認中と言っておけ」とつぶやくと携帯電話を持って席を立った。
私は泣きそうだったが、無駄だとわかった上で印刷屋さんに電話をかけまくった。
しばらくして、部長が席に戻ってきて、私だけに聞こえる声でボソっと言った。
「おお、今回はどうにかなったが、二度と間違えんじゃねえぞ」
部長は得意先の課長に電話をかけるとわざと大声でしゃべった。
「御社の猫田本部長からの指示で本社の方に送ったキャンペーン用資材ですが、本日の会議に本部長がご自分で持参されると言う事です。私が直接本部長から指示されていた件をご報告し忘れて申し訳ありませんでした」
部長は私に受話器を渡すと小声で言った。
「とりあえず知らないふりして謝っとけ」
私はわけがわからず担当の課長に謝ると、先方の課長もうんざりしたような声で、
「うちの本部長にも困ったもんだよな、牛山さんとは昔からの付き合いみたいだけど、担当を飛ばして勝手にやられてもね」
と愚痴られてしまった。
電話を切って部長を見ると、小さなメモを渡された。
メモには「本部長の猫田が今日の会議に出るので、名古屋の本社から資材一式を持ってくるように頼んだ。今夜の飲み代は高くつきそうだ」と書いてあった。
翌日の金曜日も私と部長は例のハンバーガー屋さんでビールを飲んでいた。
でも、今夜は私が部長にご馳走しなければいけないの(笑)
「部長と猫田本部長はどんな関係なんですか?」
私は聞いてみた。
「おお、猫田は大学の後輩でよ、昔サーフィンで溺れかかったところを助けた事があるんだよ、今じゃ本部長になっているが、あ奴は俺に頭が上がらんのさ」
部長はおおらかに笑うとビールを飲んだ。
「ところでよ、君のペナルティは今夜ここの勘定を払う事、それと今回の件は忘れてやるから今まで通りにのびのびと働く事」
部長は4杯目のビールを頼んでニコっと笑った。
「君がつまらないミスでしょげてたら本来の能力の半分も出せないぞ」
私のことを気遣ってくれて、ありがとうございます。
窓の外はやっと暗くなってきたところだ、今夜は部長と徹底的に飲んでみたくなってきた。
もちろん私の払いでね(笑)