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メイクで参加するはずだったのに・・・私が中途入社の面接を受けたのは2ヶ月前。
ある人の紹介だったが、入社はアッサリ決まったようだ。
初出勤の朝、配属された製作部に行くと、小柄でお洒落な男性が立ち上がって私を迎えてくれた。


年は55くらいだろうか?白髪をオールバックにした上品な男性だった。
彼は私に「部長の犬塚です」と挨拶して手を差し伸べてきた。
私も「猪田です、今日からよろしくお願いします」と答え、彼の手を握り返した。


印象と違い、犬塚部長のグリップは力強いものだった。
部長は私をロッカーに案内し、各部署を挨拶に回った後、私の姿を眺めながら言った。


「あの・・・言いにくい事なんだが、明日からはその・・・スーツで出勤する必要は無いから・・・」
そんな簡単な事でも、申し訳なさそうに言う、上品な感じの人だなと私は思った。
私の所属する部署でスーツを着て勤務しているのは部長だけだ。
金曜日だけはラフなジャケット姿だが、ほかの日はダークスーツばかり着ている。
一度だけ理由を聞いたことがあるが「うん、慣れると楽だよ」と小声で応えてくれた。
なるほど(笑)

怪しいロケ隊の隊長です(笑)私が以前勤務していた外資系のエージェンシーも服装にはうるさくなかった。
けれど、私にはこだわりがあってスーツで出勤することが多かった。
派手なデザインは敬遠していたが、生地だけは注意して選ぶようにしていた。
ただ、パンプスだけは流行も取り入れて、少し派手なものを選ぶ時も多かった。


服装の面+では部長と同じスタイルを持っているような気がする・・・
部長は仕事中も部下からの報告に耳を傾けながら、にこやかにうなずいている。
とても素敵な紳士なのだが、あわただしい会社から転職してきた私にとって、それは新鮮な驚きだった。


私が所属する部署には私以外に2人の女性が勤務している。
若い鳩山さんと私と同年輩の亀田さんだ。

撮影の合間に打ち合わせ2人とも上品でおっとりしたお嬢さんだが、営業との打ち合わせなどでの発言はしっかりしている。
彼女たちと仕事帰りに食事をしたり、私は徐々に新しい環境に溶け込んでいった。


私も仕事に慣れてきて、営業に同行して得意先と打ち合わせをするようになってきた。
原稿の受け渡しもデータが多いし、急な変更が入らない限りは決まったスケジュールの範囲で仕事は終わる。


12月に入ったばかりの金曜の午後、見本で上がってきたポスターを見て営業の担当は「ウッ!」と声を上げた。


右下に入っている電話番号が違っていたのだ。
得意先から支給されたデータを貼り付けたのだが、それは古いままのもので、局番の頭に3が入っていない。


私は瞬間で硬直した。
電話番号を実際にかけてみて確認するのは初歩中の初歩だ。
とりあえず、急ぎで必要な枚数だけはシール貼りで対応することにして、間に合う分から印刷し直すという妥協案を得意先と話し合うため、営業と出かける事になった。

アロハじじいは荷物持ちで参加得意先サイドとしてデータに不備があったのは事実であるが、こんな基本的なミスに気が付かないようでは今後の取引としては問題があるという結論になった。
結局、担当レベルの話では収まらなくなり、それぞれ上司の判断を仰ぐことになった。
私は部長にこの報告をすると、部長はにこやかに笑いながら
「事情はわかりました。猪田さん、今後はこのようなミスが無いようにお願いしますね」と言った。


「得意先との話では、今後の取引についても考えると言われましたが・・・」
「その件については私と得意先の馬渕部長との間の話ですから貴女の問題ではありません」
部長はそう言うと営業のフロアに内線をかけ、私に言ったことと同じ内容を話した。


私がデスクに戻ると鳩山さんと亀田さんが心配そうな表情で「お茶でも飲もうよ」と言ってくれた。
私たちは立ち上がって打ち合わせ用のブースに移動した。


亀田さんは「部長の事だから大事にはならないと思うよ」と言って私の肩をたたいた。
「コーヒーを飲んで落ち着いたら、後は部長に任せちゃいましょう」鳩山さんはそう言って笑った。

芝生の上だとリラックスするね私たちがフロアに戻ると私のデスクの上に部長のメモが乗っていた。
「この封筒を馬渕部長に届けてから今日はそのまま帰ってください。では良い週末を!」
部長は営業のフロアで打ち合わせをしているらしく席を外していた。


私は封筒を持って重い足取りで得意先に向かった。
受付で馬渕部長に内線したが不在で、先の虎山という担当者が封筒を受け取りに来た。


「私の不注意でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」虎山は済まなそうな表情で言った。


「いえ、こちらこそこんな基本的な事に気がつかず・・・」
「犬塚部長に怒られたのではないですか?」心配そうな表情で虎山は聞いてきた。
「いえ、今後注意するようにと・・・」
「羨ましいですね、私は馬渕に散々怒鳴られました。それでは犬塚部長からの書類は預かります」

まゆちゃんと休憩中ですもう7時になっていた。
黒いビロードの帳が下りてきたような冬の夜だった。
地下鉄の階段を降りようと思ったが、足は自然とネオンチューブが輝くダイニングバーに向かっていった。
暖かいバーのカウンターに座ると、こんな単純なミスをした自分が情けなく思えてくる。


ビールをゆっくり飲みながら道行く人を眺めていると、歩いてきた虎山と目が合った。
虎山はバーに入って来ると「偶然ですね、お詫びと言ってはなんですが、今夜はおごらせてください」と言って隣の席に腰掛けた。


2人で今回のミスに関する反省会を1時間ばかりした時、通りを歩いていく犬塚部長の姿が目に入った。
虎山もギョッとした顔で表を眺めている。


「何で犬塚部長がうちの馬渕と歩いているんだ?」
「えっ?うちの犬塚と一緒に歩いているのは馬渕部長なんですか?」
「2人で何をしているんだろう?追いかけて見ましょう」

今日は涼しいのでメイクは楽です虎山は会計を済ませると、私と2人で六本木の路上に出た。
長身の馬渕部長と一緒に歩いている小柄な男性は間違いなく犬塚部長だ。
馬渕部長は私が届けた封筒を持っている。


2人は雑居ビルに入っていった。
エレベーターホールは無人だったが、上昇中のエレベーターは4階で停止した後降りてきた。
私たちもエレベーターに乗り込み、4階のボタンを押した。


ドアが開くとそのフロアはジャズのライブハウスだった。
ところが2人の姿はどこにも無い。
不思議に思っていると上着を脱いだ2人がステージに上がってきた。


馬渕部長はウッドベースを抱えている。
犬塚部長は先が細くなっているステイックを持ってドラムセットに座った。


私たちは隠れるようにカウンターに座り、事の成り行きに驚いていた。


やがて、ピアノがそろったところで演奏が始まった。


スタンダード・ジャズのピアノトリオだがベースの馬渕部長はビート感のあるドライヴの効いた演奏をしている。
客席の乗りを確認しているその時、馬渕部長が虎山の姿を見つけたらしい。

メイクさんお疲れさま〜「あっ!」という顔をして犬塚部長に何か小声で話し掛けた。
今度は犬塚部長が私を見つけて驚く番だった。
危なくステイックを手から落とすくらい驚いたようで、シンバルを空振りした。


トリオの演奏は30分ほど続き、1回目のステージの最後に犬塚部長がMCを入れた。


「今夜は私と馬渕の部下がここに来ています。今夜は仕事に疲れた中間管理職にふさわしい曲を演奏したいと思っていました。Everything Happens To Meです」


馬渕部長は私が届けた封筒から楽譜を取り出した。
あの封筒はこの演奏のためのものだったんだ。
そして部長のグリップの強さはドラムをやっているからだったんだ。


演奏が終わると2人の部長はステージを降りて、カウンターに向かって歩いてきた。
そして私たちに最後の曲の説明を笑いながらしてくれた。


「この曲はね、ついていない中年男を歌ったコミカルな曲なんだ。今夜の僕らの気分にぴったりだろ?」

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