ボンベイ・サファイア| Bourbon Street | Wild Turky | Dimple | Jack Daniel's |

ポタニカルの芳醇な香りを楽しんでくださいカウンターの中ではキミコがいつものように大笑いをしている。
笑いのネタにされているのはこのバーの常連客で、広告代理店の中間管理職をやっている冴えない男だ。


彼は鬼のようなハイペースでボンベイ・サファイアのロックを飲み、日が変わる頃にはカウンターで爆睡してしまう事が多い。
仮に寝足りているような夜にはボトルが空く事も珍しくないが、その場合はヘロヘロになって呂律が回らなくなってしまう。飲み屋にとっては、無害だが迷惑なお客なのだ。
今夜の彼は元気そうで、カウンターにへばりつくようにして快調にグラスを空けている。
彼はナッツをコリコリ齧りながら、カウンターの中のキミコと会話の真っ最中だ。
考えようによっては、いつもの週末の光景が繰り広げられているわけだ。


私はカウンターの定位置に座って、ぼんやりグラスを眺めていた。
私の手元にも彼と同じボンベイ・サファイアのボトルがあり、薄暗い照明の中で低く光を反射させている。ロックグラスの中からポタニカルの芳醇な香りが立ち上ってきて、私を手招きしているようだ。
「さあ、グラスの中へ飛び込んでいらっしゃい・・・」立ち上る香りの中で美女が囁いている。
ロックグラスの中に浮かんだ氷山のてっぺんから、小さくなった私がダイビングをしている姿が脳裏に浮かんでいる。
ボンベイ・サファイアのシャープな味覚と芳醇な香りが私の周囲を満たし始めている・・・

中間管理職はいつもヘロヘロですふと、顔を上げるとキミコがカウンターに肘をつきながら、私の顔を見つめていた。
カウンターの隅に目をやると、可哀想な中間管理職はうとうと居眠りを始めている。
キミコは私にウインクするとオーデイオセットにデイスクをセットした。ディスクをセットするカチャっという音の後に、BOSEのスピーカーからパーシー・スレッジの歌う When a Man Loves a Woman が流れ出した。


「彼の睡眠の妨げにならないかな?」
「むしろ、安眠できると思うよ」キミコは笑いながら私のグラスにボンベイ・サファイアを注いだ。
「このボンベイ・サファイアってジンは47℃あるんだよな?」
「うん、香りが高いから、ついつい飲み過ぎちゃうんだよね。とても懐かしいお酒だよね」


私はロックグラスを目の高さまで持ち上げて軽く揺すってみた。グラスの中では氷山が揺れていて、遥か彼方に過ぎ去った遠い夏の香りが漂っている。
遥か昔のある夏、私は勤務していたエンジニアリング会社を辞めて、ウインドサーフィン三昧の生活を送っていた。
辻堂にある母の実家を根城にして、茅ヶ崎から逗子方面で遊び呆けていたわけだ。


キミコと知り合ったのは、本牧で行なわれた友人のパーティの席だった。
彼女はフォーマルなパーティに不似合いな派手なアロハを着て、真っ黒な顔でビールをがぶ飲みして大笑いをしていた。
私もその晩はリーヴァイスにアロハを着て出席していた。

ボンベイサファイアはリゾートの夜にも似合います周囲から浮きまくった二人がパーティを抜け出したのは当然の帰結だったろう。
酔っ払った私たち2人は新山下までフラフラ歩いてタイクーンにたどり着いた。
キミコはテラスの椅子に腰を降ろすと「貴方は辻堂から来たって言ってたけど、東京の人だよね?」と興味深げに私の顔を覗き込んだ。
私はボンベイ・サファイアのロックをなめながら頷いた。
私は、なぜかキミコに嘘がばれたようなばつが悪いような思いを感じた。


「別に隠すつもりも無いけど、今、失業中でプラプラしているんだよ」
「ふ〜ん、そうなんだ。」
キミコは急に愉快そうな表情になり「私と同じじゃん」と言って笑い出した。
私たちは失業中のカップルとは思えないような姿だったと思う。


「ねね、お互い暇人同士だし、そんなに黒いならサーフィンもやるんでしょ?私と付き合ってくれない?」
私はロックグラスをテーブルに置くと、彼女に右手を差し出した。
「了解です隊長、それでは今からチームを組んで遊びまわる事にしましょう」
彼女と腕相撲するようなロコ風の握手をして、私たちは2人でチームを結成したのだった。
タイクーンで看板まで粘った私たちは、その後、関内に流れ、都橋で朝を迎えた・・・

陽気なパーティの夜は明日の事を忘れて楽しんでみましょう湘南で過ごした2年間はあっという間に過ぎて、最終的に私は叔父の家業を継ぐことになり、都内に舞い戻る事になった。
キミコも同じ時期に両親の離婚や姉の入院などがあり、実家に帰るタイミングを考えていたようだ。
その時点で、私たちの関係は決定的な破局を迎えたということではなく、漠然と休暇の終わりのような雰囲気になっていた。
楽しい時間はいつも突然に終わるものなのだ・・・


湘南で過ごす最期の数日は、2人で大好きなボンベイ・サファイアを飲みながら夕陽を見て過ごしていたような記憶が残っている。
私たちは都内に戻ってからも頻繁に会っていたが、お互いの夏が完全に過ぎ去っている事を感じていたと思う。
結局、キミコは実家に帰り、精密機器のメーカーで管理職として10年勤務した後、「アクア・ブルー」というバーを開いた。
私は開店祝いの生花を送ったが、店に顔を出すことは控えていた。過ぎ去った思い出をそのままにしておきたかったからだ。
これでやっと一つの区切りがついたと思い、私の気持ちも収まりがついた。
それから数日して、私の誕生日にキミコからボンベイ・サファイアが届いた。
私はその晩、仲間の開いた誕生パーティで記憶を飛ばすほどの大酒を飲んでしまった・・・
今、私の前でキミコはよく焼けた腕を組んでパーシー・スレッジを口ずさんでいる。

ネオンチューブの光は朝まで消えません「なあ、ミヨコとユミコって今でもお店をやっているの?」私は何気なしに訊いてみた。
「ミヨコはもうお店を閉めて今はOLやってると思う」
「ユミコはもうすぐ相田さんと一緒になるからお店を閉めるのも時間の問題だね」キミコは愉快そうに私の顔を覗き込んだ。
「あの2人には感謝の言葉も無いな」私はテレ笑いしながらグラスを傾けた。


ミヨコとユミコは大学時代の後輩で、昨年の暮れに共通の友人の結婚式に一緒に参加した。彼女たちに引っ張られて私は2次会に向かい、私は偶然にキミコと再会したのだ。
キミコは相変わらず真っ黒な顔をして、アロハを着て大笑いしていた。
彼女は私のディナージャケットを見てちょっと首をかしげた後、昔のように抱きついてきた。
結局、その夜は大学の後輩の女の子2人を連れて、キミコの「アクア・ブルー」にお世話になる事になってしまった(笑)


そして今でもお世話になりっぱなしって事になっている。
キミコが何であの2次会にアロハを着ていたかといえば、何となく私と出合ったパーティの事を思い出したかららしい。ちょっとした洒落のつもりが、こんなことになるとは考えても居なかったらしいけど・・・
まあ、可愛い後輩が2人が私を引き回してくれたお陰でもあるのだろう。


見詰め合う私とキミコの間に流れるBGMはパーシー・スレッジの歌声と、広告代理店の中間管理職がかいている低いイビキだった。

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